くらむせかい

精神虚弱なぼっちヒキニート

ヴィスコロナ時代の自由論

医療従事者だった頃、よく想像をしたものだ。いま地震が起きたら、この身を投げ出して患者を救い、自分の家族の安否はわからぬまま、カルテを屋上へと運び、病院内のインフラの代わりとして働かねばならないだろう。数日間の話ではなく、その間にもわたしの愛するものが壊されたり遺棄されたりする可能性もある。それでもわたしたちは現場にいなければならない。
自宅で被災したらこの足で病院まで走ってかけつけなければならない。医療従事者だった頃、よく想像をしたものだ。いま地震が起きたら、被災が終るまで患者と医療を繋ぐ歯車でなければならない。
何度も、何度も、想像をした。
鳴り止まぬアラート、混乱する受付、ガラス片の散らばるリノリウムの床、泣き叫ぶ高齢者、足の立たぬもの、目の見えぬもの、逃げだすひとびと、しかし安全な逃げ場はどこにもない。わたしたちは定められた安全を提供すべく、患者を拘束し、階段を背負って登り、津波から逃げなければならない。
ぼろぼろに濡れたカルテ、機能しなくなった一階のER、非常電源で命をつなぐ入院患者、やっていられないと走っていく同僚たち。
走っていく同僚たち。

自由はどこにあるか。
わたしの中にある。
非常事態において、自由を行使するには、法律も政府も要らない。瞬間の行使には、自由ひとつがあればいい。

差し出された手に、手を伸ばせるのかどうか。それが瞬間の自由を問う。

しかし昨今問題になっていることは、瞬間瞬間の問題ではない。だからねじれているし、食い違っている。

瞬間の話と、継続の話が、自由と不自由の話に置き換わってしまっている。

問題は各人間のもつ言語によって読み説かれてしまうから、必ず答えには行き着かない。

だが、だからこそこのような自体において、言葉を話すことが必要だし、話されている言葉に傾ける耳が必要だ。
ほとんどのひとは、ほとんどのひとに聞こえない話をしている。また、ほとんどのひとはほとんどのひとの話が聞こえていない。聞こうともできていない。届かそうとも話せていない。わたしがそうだ。

昨年売れたノンフィクション作品のエピソードに、飴の話があった。ホームレスの救助に向かった少年が逆にホームレスから飴を受け取ったという内容だった。

わたしたちに聞こえていないのは、ホームレスと少年の両方の声であり、わたしたちが話しているのは、ホームレスも少年もいないTwitterやブログの中だ。
そして、Twitterやブログの中にもひとがいる。話があり、聞かれ、聞き逃されている。

わたしは空想の中では、瞬間の決断を繰り返しているつもりだった。
しかし本来は、繰り返されるぶんだけ連なりつづける選択をしていたのであって、それは非常事態だからと言ってだれかに加味してもらえるようなのではない。

わたしの空想はとても強く固いものだった。
だからたちが悪かった。
結局は空想がわたしを壊したのだ。

ヴィスコロナの時代が本格化している。
わたしたちはひとりひとりが考えなければならない。話さなければならないし、耳を傾けることをやめてはならない。

わたしが信じる自由は、自由であることの自由であり、それは不自由も許容をする。

あの日もしも地震が来ていたら、わたしは瞬間の自由をひとつひとつ行使しただろう。それは法で定められているからでも、政府からの要請があったからでもない。ただ目の前の手を、手に握ることしか頭になかったからだ。ここに知恵や経験の差が出る。わたしは手を握っただろう。自由を信じて。ほかのすべてを失ってでも、自由と手を握り交わしたのだ。

ヴィスコロナの時代は、南海トラフ地震や、太陽の黒点や、エネルギー転換、がん治療の問題と共にある。共にあって、コロナだけが突出している。これはすこし奇妙な状況ではないだろうか。
ほかと平たく並べてよいというのではない。だが、ほかの問題がすべて棚上げされてしまってよい話でもない。なぜならば人間は生きるために生きているのだからだ。死ぬために生きているのではない。

大事なことは何度でも書くが、話すことと聞くことだ。
間違っていてもいい。

一瞬の判断を繰り返すには、まだ早すぎる。
時間はないが、その中で話せることを話し、聞く耳を持ち、自由とは何かを考えつづけること。

それがいまのわたしには大事なことにおもえます。

自由。
自由。

不自由である自由をわたしたちは、認められるだろうか。
規制という形ではなく、法律でも政治でもなく、性善説の前で、不自由を行使できるだろうか。

わたしがもしいままだ医療従事者であって、大地震に見舞われたらば、選ぶものは決めてある。

そのようにして、わたしたちは決めて生きなければならない。

自分自身の人生を生きねばならない。
それがどれだけ他人の人生とは似ていなくても。

わたしは自由を信じている。
すべてが自由になる日を空想している。

働くべきひとと、働かざるべきひとの規制に、わたしは空想をする。その先の未来を見てみる。
分断された社会はうまくいかない。必ずうまくいかない。

自由に対して法律があるように、コロナ渦の営業に罰則があるのとは、話しの階層がちがう。
ちがうが、必ず繋がっている。

いま脅かされているのは、経済の自由であるだかけではない。生存の自由がしれっと輪の中に収められようとしている。
その輪は狭すぎる。

無知なものほど話してしまう。

 

わたしの自由を奪うものは、わたし自身の身体だけに認められる。

わたしは他人からは自由だ。