文才
わたしの文才は父譲りだ。
父も子供の頃は小説家に憧れたらしい。
わたしが「小説家になりたい」と言った時、「まずは書け」と一喝された。
文才は父譲りだと言ったけれども、それは文才が「ある」という意味ではない。よく言って中庸である。
先日、わたしがまとめたメモを、父が文章に起こすという作業があった。
その時、自信満々に返された文章を読んで、それはたいへんわかりやすくまとまっていたのだが、なんだか心がもやもやとした。
ほんとうは、わたしたちはもう少し先まで行けたのではないか、とおもったのだ。
この思い上がりが、もっと若い頃にあったら、何年もかけて小説家を目指す羽目になっていたかもしれない。
それはとても怖いことだった。
なにかになるというのは怖いことだ。
わたしは中庸を行きます。
そこそこに満足のいく文章を書いて、たまに友だちに褒めてもらえたら、もう暁光の中に立つようなもの。
嬉しいということです。
わたしはわたしの道を行く。
その方向には、それなりに満足している。
ところでこの記事が「くらむせかい」100記事目である。
これまでお付き合いくださった方々、友だちとして支えて励ましてくださった方々に感謝をします。
みんなさまが幸福でありますように。