くらむせかい

精神虚弱なぼっちヒキニート

父の横顔

マンションのロビーで、父が小学生と歓談していた。どの子も目を輝かせて顔を真上にあげて、「見て、見て、早くわたしを見て」と叫んでいるようだった。父は子どもたちに(小2の女の子がふたり、小1の男の子がひとりだった)、九九は習ったか、九九の意味はわかるか、と問うていた。子どもたちは宿題そっちのけで、教科書をランドセルから引っ張り出し、「ほらここに書いてある、これで習った、9の段まで習った」と言った。父はうなずきながら、九九の意味はわかるか、と問うた。
父も仕事がうまくいかずにうつ病を患い、苦労をした。どの職場も気に入らず、常に苦しみを抱えて、心が満たされることはなかった。どこに行っても場違いな扱いをされたのかもしれない。どこにも馴染めず、働いている間はずっと、仕事を辞めることばかり話していた。
わたしと父は似ている。わたしも仕事で体調を崩して、立ち直るのには何年もかかった。だけど、仕事のことは、全身で好きだった。
好きなことを仕事にすることは、最高のしあわせだと考えられている。苦労して日銭を稼いでいるひとのかたわらで、好きなことを好きなだけして、平均的な給料が保証されている。しかし現実はそんなに単純ではない。
好きな仕事だからこそ、おもうようにいかないと心は苦しみを抱えやすい。心と身体はダブルバインドで締め付けられて、好きと嫌いの両方を背負い込んだ背中は重い。
わたしは仕事が好きだった。やればやるほどおもしろくなって、どこまでも探究していきたかった。天職だとおもったし、いまでもそうおもう。あんなに好きな仕事は、ほかには見つからないだろう。そしてあんなに身体を痛めつけられる仕事には、もう就けないだろう。
結局父もわたしと同じだったのかもしれない。好きだけど嫌い。やりたいけど苦しい。逃げ出したいけどほかのどこにも居場所はない気がする。なによりもその仕事を辞めたくない。だっておもしろいから。ほんとうに仕事が好きだから。
父の人生を空想の中でなぞりながら、わたしは父によく似ているのだとおもう。探究心と好奇心が強く、他人との関わり方にオリジナリティがある。一般的な発達よりも、非定型とされる発達に近く、内省する力が弱い。過集中は日常で、他人の言葉や思考の綾がわからない。わかるのは公式や論理、実践やその結果だ。
研究者向きだとされるが、研究者でも他人との関わりは日常的に必要とされるし、管理職は大抵畑違いのものが派遣されてくる。現場では使える話が通じず、管理職が持つマニュアルに沿って処罰される。わたしたちはマニュアルを生まれたときに与えられておらず、それだから、ひとりひとりがマニュアルを作り上げ、修正し、持ち運び、また書き込んできた。人生でそうするように、仕事でもそうした。与えられたものの中にマニュアルがなかったから。
わたしたちだけのマニュアル。その中にない言葉を浴びて、あみだくじのように選ばれる態度に疲弊していく。どこにも論理が見いだせず、わたしたちの持つマニュアルはボロボロになっていく。破綻していく。心も身体も、直らなくなっていく。
それでも好きだった。あの仕事はわたしにとって大切なものだった。だからこそ壊されて傷ついたし、ついていけなくなった自分を恥た。
その日父は子どもたちの視線を一身に浴びて、輝いていた。声のトーンが普段と違った。間延びした声で質問を繰り返した。子どもたちの細かな動きには動じない。分厚くそこに立っていて、子どもたちの内面にだけ、心を砕いていた。
九九の意味はわかるか。箱の中にリンゴが2つあり、その箱が3つあったら、リンゴは合計いくつあるかわかるか。子どもたちは必死になって父を見上げ、見聞きしたことのない問に全力でぶつかろうとしている。「わたしはばかだから」と言っていた女の子も、くもんを習っている女の子と顔を見合わせ、もしかして、と小さく叫ぶ。ねえ、もしかしてこれ、九九じゃない? ねえそうじゃない? 2かける3じゃない?
1年生の男の子は話題に遅れていることを焦り、ねえねえ、と自分のノートを指差す。ねえ聞いて、この問題はわかる? こういう問題だよ。 だめ、ちょっと待って、しぃー。いま話してるから。 この鍵でこうやって回して家に帰るんだ。この鍵で。
父は非常にリラックスしていて、周りの状況を理解し、溶け込み、強くあった。その場で子どもたちがそうであったように、父もまた堂々としていて、なにかを新しいことを受け入れる準備ができているようだった。
父の姿を見て、自分を省みた。似ているとおもったし、だから悲しくもなった、嬉しくもなった。やはりわたしの天職は研究者なのだろう。しかしそれは給料のもらえる仕事である必要はない。自分だけの時間、自分だけのマニュアルのために、自分を成長させることが重要だ。新しいことを学び、記憶し、咀嚼し、提示できるほど理解する。そうしている間にも新しいことは次々と目に飛び込んでくる。終りのない沼。でもそこで生きていたい。
父が教壇に立つ姿を見たことはなかった。もしもわたしが父の教え子だったら、こんなにも子どもの言葉に素直に耳を傾けて、おもしろがり、それぞれの向かいたい未来へ背中を押してくれるような父を、わたしは敬愛しただろう。わたしは教え子にはなれなかったし、実子としては教え子以下の扱いだった。父は不器用で、わたしも同じくらい不器用だった。
それでも、自分が父に似たことをおもしろくおもえる気がした。わたしは父のように生きるだろうか。たぶんそうだろう。探究という沼の中でしか光を見い出せないのかもしれないから。
沼から顔を上げたときの、心地よさ。頬に当たる風、つむじを焦がす日差し。耳の中に飛び込んでくる生活音、だれかの手、足、わたしの手、足。なにもかもが新しく、懐かしい。