くらむせかい

精神虚弱なぼっちヒキニート

バトン

Twitterやブログのお友だちとバトンがしたい。いまのひとは知らないのかもしれないけれど、昔はバトンというものがあって、ひとつひとつの質問を真剣に考えて、答えて、自分の輪郭を他人に見せることを躊躇しなかった。インターネットと現実の日々は分け隔てられていて、それでいて、現実のわたしとインターネットのわたしを統合するたったひとりの自分を伝え抜くことを楽しんでいた。

なんというか、いまほどネットの内外の差が意外にもなかったのだとおもう。インターネットをしているひとはごく一部のひとだけで、限られた場面に集まり、それぞれの手のひらの中に、言語や描写を拡げていく作業が必要とされた。いまのように、ダイレクトに仮想の人物に繋がり続けることはなくて、真実が真実のまま、あくびをしながら顔をあげていた。

あの頃交わしたバトンを、いまの時代に古い感情で作成することはできないのだろう。いまはどこを見ても、架空の存在や、作り上げられた言語が、現実の自分を切り刻み、貼り付けて、それでよしという具合に取り決めはなされている。

フェイスブックTwitterも、ひとりの人間がいくつものアカウントを操作し、生きる世界を棲み分け、感情も言語も背景も過去も、切り刻まれている。それがあたりまえになっていて、躊躇しているのは、わたしのような頭の更新が遅いものばかりなのかもしれない。

もしもいまバトンに答えるとするならば、わたしはどこまで正直に自分を語れるだろう。くらむと名乗るわたしを語るのか、それともパソコンの前に座る青白い顔の女性を語るのか。バトンは確実に語り手を暴いていく。力を持っていて、扱いが難しく、独自の言語を持たない。そこで伝える言葉は、だれの耳にも届いてしまう。わたしの外と内側の両方が、含まれていく。

だからおもしろかったのだとおもう。バトンを交わし合えば、それは裸を見せ合ったような、あきらめと、強さが得られた。自分自身に対しても、どこまで譲歩できるのか、あるいは、いつまでここに居られるのか、問われる場面としての機能があった。バトンはおもしろくて、怖くて、鋭くて、鈍かった。

ああ、またバトンがしたい。数少ないインターネット上のお友だちとやり取りがしたい。彼らにはくらむという名のわたしだけではなく、現実を含有するわたしという全体像を語ってみたい。
そして語られる言葉を聞いてみたい。彼らがいまどこに生きていて、なにを望んでおり、どれだけの過去を背負い、どんな音楽が好きなのか、知りたいとおもう。

世の中はコロナに振り回されているけれど、こんな時代だからこそ、もういちど、切り取られたアバターではなく、わたしの分身を通じて、言葉や生活のやり取りがしたい。そこにだけは、わたしのすべてを費やしてもよいとおもえるような場所をいつか作りたい。

それでも結局は怖がりなわたしだから、個人情報を恐れて、バトンは使えないだろうとおもう。
代わりに、自分でバトンを作ってみてはどうか、と考えている。たとえば、創作者バトンや、海外文学読みバトン、ひきこもりバトンや、はてなユーザーバトンなんていうものもあってもいいかもしれない。質問項目を考えるとわくわくとする。いつかみんなでできるといいね。