くらむせかい

精神虚弱なぼっちヒキニート

トリアージ

こんな話を読んだことがある。
定型発達のひとは、例えば100体力を使っているところへ、あと20使う仕事が増えた。すると、100のうちから適当なものへの体力を減らし(たとえば余暇の時間を削るとか)、合計で100になるように調整している。
一方非定型発達のひとは、100体力を使っているところへ、あと20使う仕事が増えた。すると、100+20で、120体力を使ってしまう。その結果、もちろん身体はキャパオーバーをしてしまい、普段は30で足りていた休息も50必要になる。そうして雪だるま式に必要な体力が増えていく。
けれど、人間の体力には限界があるから、非定型発達のひとは、徐々に疲弊し、あるとき突然、休息も就業も余暇も人間関係も持ったまま、崩れ落ちる。
この話を読んだとき、そういうことだったのか、と胸のつかえがとれた思いがした。定型発達のひとから見れば、もっと休めばとか、趣味はまたにすればとか、他人に無理に合わすことないよとか、そんな話になってしまう。だが、非定型発達当事者からしてみたら、そのような問題の形ではなく、苦しい作業をすればするほど打ち消す作業が必要になり、体力はいくらあっても足りず、人生がぐしゃぐしゃになってしまう。ときどき、非定型発達を自称する成功者(なにの?)がいるが、彼ら彼女らは、やりたいことをやるだけの人生を送ることが偶然にもできている、のだとおもう。好きなことが仕事にできたから、体力100の中でやりくり可能なのだ。
数字はわからないけれど、自分に得意な作業や、やりたいと思える仕事を収入源にできるひとはどれだけいるだろう。非定型発達という体力をまず持っているうえに、会社に通い、外食をし、本を読み、恋愛をし、ライブに行き、生涯学習をする。あまりに多すぎる。多すぎるのだ。
定型発達のひとは、体力を調整する際、たとえば余暇は来月に回そうとか、今月は仕事がキツイから早めに寝ようとか、そういう仕分けができる。未来を見越した計算ができる。
一方非定型発達のひとには、「いま」しかない。いまやるか、やらないか。いまやらないと決めてしまったことは一生手放すことになる気分になる。来月に持ち越すなんて考えは起こらない。永遠、非定型発達者はそういう一瞬の永遠の中を生きている。

この話に、どうしたらいいのかという答えはない。仕事のために余暇を削ると、非定型発達者はたとえば体力100の内に収められたとしても倒れてしまう。したいことができない、やりたいことを(社会、自分に)やらせてもらえない、その苦痛はとんでもなく大きい。
理想はやりたいことを仕事と同化させることだが、それは簡単な話ではない。辛いとはおもうけれど、すべての項目の平均値を下げ、項目数を維持するためにひとつひとつを不完全に取り組むことが妥協点ではないだろうか。

わたしにも、ほんとうにやりたいことがたくさんある。睡眠時間を削って(非定型発達の場合まずどうにもいかなくなると睡眠時間を削り出す)でも、やりたいことがあった。やっていたけれど、長くは続かなかった。
どうしてわたしたちの体力は、みんな平等に100なのだろう。
やりたいこと、成し遂げたいことは、こんなにもひとそれぞれなのに、身体付きも学習能力も、家庭環境も、ほんとうにひとそれぞれなのに、みんな平等に100しか持っていない。

この話に答えはないと書いたが、わたしが考えうる最善策は、自己拡張にあるとおもう。あえて自他境界を薄めるのだ。わたしが読みたい本をあのひとが読んでいる、わたしが通いたかった学校にあのひとが通っている、わたしが書きたかった婚姻届をあのひとたちが書いている。世界中に暮らす幸せそうな犬や猫を愛するように、わたしにが生きられなかった人生を、隣人を、愛せたら、体力100の中に無限の可能性ができないだろうか。
それが他人任せにおもえるひとは、定型発達なのだとおもう。非定型発達という苦しみを生きたことがないひとだとおもう。もちろん非定型発達のひとの中にも、わたしの戯言には頷けないひとも多いかもしれない。それでも、同意してくれるひと、この考え方で、ほんのすこしでも、苦しい苦しい肩の荷を下ろせる人がいたら、わたしはうれしい。

これは人生のトリアージの話しだ。
どこまで千切るのか、決めるのは自分自身の、トリアージ