くらむせかい

精神虚弱なぼっちヒキニート

 

 

 

犬の末の弟が死んでから一年間は毎晩墓に通い長文の日記をつけていた。それもいずれは公開したいがまだ準備ができていない。文章の準備も、心の準備も。

 


一番目の弟がこの年結婚をする。実家の両親にはメールにて連絡があっただけで、両家の顔合わせなどはない。相手の写真も送られてきていない。現在の住所も不明だ。

こんな世の中になったのかと思う。それは便利さの追求のためなのか、弟が志した哲学の道がそうさせたのか、わからない。

 


わからないことだらけだと思う。原神なるゲームも、コスプレなる領域も、わからず、どこにもわたしの居場所はなく、唯一の拠り所の本にも見放されつつある。識字障害が続いている。

 


フェミニーナ軟膏が必要になりそうな気配がある。そんな今日、高知での異例の積雪から早数日が経っている。

 


赤髪の白雪姫という漫画を読んでいる。わたしもゼンになりたい。

 


暖房ばかりつけていると乾燥をするので適宜換気を行うようにしているが、高知でもここは都会で、都会の排気ガスを胸いっぱいに吸い込むと、ただ冷たいだけで、有害さは感じることができなかった。それほどわたしたちは鈍感になってしまったのだと思う。

 


三秋縋の本を感動を持って読めるか。エンダーのゲームを読んで流した涙をもう一度流せるか。最後のユニコーンの戸惑いをいまも抱けるか。

 


ぷつんと音がする。

 


放送の後の静けさ、清掃の後の清潔感。わたしたちは慣れすぎていて、どこに行っても部外者だ。

この世界は慣れない者でできている。新しい者、見慣れぬ者、のっぺりとした顔の者でできている。傷のない者でできている。

 


ではすでに傷ついた者はどう生きれば良いのか、どこで生きれば良いのか。

どこにも居場所はない、と言い切れるか、言い切ることで他人を傷つけて良いのか。

少年アヤのように生きられるか。生きることを選べるか。生きる場所を求められるか。

朝井リョウのように求められるか。追求できるか。

 


わたしたちは生きられるか。